「平和の実現を求めて」★(説教者―山口雅弘)

マタイ福音書

ガリラヤのイエスのイメージ

子どもたちの屈託のない笑顔を見て、この笑顔を奪う社会であってはならないと思わされた。「平和」は「一定の状態」を言うのではなく、絶えず作り出していくものである。多くの人が傷つけられ哀しい事件が絶えない社会の中で、小さな行いであっても、社会や世界を見すえながら実践を通して神の愛と平和を求め、人の生命の尊厳が大切にされる社会を実現しようとする。そのことが、イエスの「招き」に応えることであろう。

「イエスはどのような方か」、顔かたちや姿などを含めてイメージしたことがあるだろうか? 2千年の歴史を通して、特に西欧のキリスト教の絵画や彫刻、音楽、あるいは文学などによって、イエスは髪が長く、髭を生やした白人のような顔立ちというイメージが示されてきた。ところが、イエスは黒い肌をし、髪はちじれ、背が低かったなどと言われると、「エッ」と思う方がいるかも知れない。自分のイメージを固定化すると、そのことから自由になれなくなるので、聖書を常に新しく学び、自分の考えを問い直してみる必要がある。そこで、次のようにイエスの姿の一端を思い巡らしてみたい。

イエスはガリラヤの「ナザレ」という村に生まれ育った。住居や墓の発掘調査から、500人程度の人口だったようだ。ガリラヤは基本的に農村社会だった。ペトロのような漁師も含め、ガリラヤの90パーセント以上の人々は農民、また兼業農民だった。

イエスは小さい時から朝早く起きて畑仕事をし、一段落すると「木工職人」として農具、燭台やテーブル、木のスプーンやお椀などの食器を作る手伝いをして成長しただろう。しなやかな手とはほど遠い荒れた手を持ち、農作業で日焼けをし、たくましく頑丈で筋肉質の人だっただろう。しかし、痩せて骨格が浮き出ていたと思われる。と言うのも、ガリラヤに生きるほとんどの人が貧しく、日常的に食べる物に事欠いていたからだ。

神の愛と平和実現の旅に出るイエス

イエスは、ある時から「神の愛と平和」の実現を求めて村々を巡り始める。辛く苦しいことがあっても、旅を続ける気力と体力を持っていた。否、イエスを突き動かす神の生命に生かされていた。そして、当時の宗教的規則やタブーを破ってでも、「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ11.19)と非難されても、社会の淵に追いやられる人々と「神の国の宴」を示す食事を共にした。食事は、単に「物を食べる」というのではなく、人と人を結ぶ大切な時、神の国のひな形であった。

特にイエスは、失われた魂を求め、孤独な人、思い煩い・悩み苦しむ人、差別されている人、心身に病や障がいを持つ人と、共に食べ、共に飲み、笑い、人々の心に「生きていて本当に良かった。自分は一人ではない。神に生かされている」という思いを分かち合った。イエスは、その具体性の中で「神の愛と平和」の実現のために生きた。そのことがまた、人々を排斥する社会の権力者たちへの批判、また抵抗にもなった。

イエスは迫害され、社会の体制から追いやられても、権力やしがらみに縛られない自由な生き方をした。私たちもまた、そのように生きていくことができる道を、イエスは拓いて下さった。そして、ローマやユダヤの権力者によって十字架につけられることを知りながら、イエスはその生き方を貫き「互いに愛し合う世界がある」ことを示した。

平和実現への招き・私「たち」の平和

マタイ福音書5章9節は、イエスが自らの生き方と切り結ぶ形で「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と語った教えである。この言葉は、「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という語りかけに結びき、平和を実現するために「私はあなたを招いている」という「招き」でもある。破れや失敗を重ね、弱さを持つ私たちであっても、一人の人間として出来ることを祈り求め、実践していくために「あなたは生きていけるのだ」というイエスの招きである。

視点を変えて、イスラームの原理主義・過激派による暴力行為の報道に惑わされず、イスラームの礼拝について紹介したい。礼拝は1日5回あり、見ず知らずの人と横並びになり、平等に神の前に座る。その場で、神と自分との「平和」という縦の関係と、隣の人と自分との「平和」という横の関係が確認される。礼拝が終わると、互いに挨拶を交わす。

「アッサラーム・アライクム」(あなたに神の平和がありますように)と言い、言われた人は「ム・アライクム・サラーム」(あなたにこそ、神の平和がありますように)と返す。「サラーム」は、へブル語の「平和」を意味する「シャローム」と同じ言葉。この「平和の挨拶」は、日常的に「神の平和がありますように」という生き方を表す言葉であり、「平和を実現していく」ことを覚える意味で、大切な実践のひとつであろう。

「平和」は、個人的な平和や平安と同時に、必ず社会の諸問題と結びついている。日常の中で人とぶつかり、誤解やすれ違いによって辛い思いをすることもある。その現実の中でこそ、「私たち」の平和を実現するための祈りと実践が不可欠である。

平和を実現する神の子

イエスのまなざしは、「生の私たち」に向けられている。人や自然の生命を脅かす問題や課題が山積する中に生きる私たちを見すえ、「平和を実現する人々は幸いである」と語るのである。そこに、イエスの私たちへの篤いまなざしがあり希望を与えられる。その語りかけは、このように響いてくる。「平和を実現する人々は幸いである。その人々は神の子と呼ばれる。なぜなら、この世において少数であっても、その人々は神の子と呼ばれる」。この言葉の前後関係から読み直しても、そのように受けとめることがでる。

5章の初めから始まる「山上の教え」を読むと、「幸いである」と言われる人々は、「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」、「義に飢え渇く人々」、「憐れみ深い人々」、そして「義のために迫害される人々」である。その人々は皆、力なく弱い人々。また、社会の片隅に追いやられていく人々である。しかし、「平和を実現する人々」は少数であっても、暗闇に「星のように輝いて」「神の子と呼ばれる人々」である。私たちがイエスと同じように「神の子と呼ばれる」ことはすごいことであろう。破れや失敗に満ちた私たちが、「平和」の実現を祈り、「互いに愛し合」って生きようとする、その者は「幸いである」、「神の子である」と語り続けるのである。そこに、イエスの限りない慈しみがあることを知らされる。

私たちは「平和を実現する者」として、イエスの道を歩むように「今」招かれている。いつもそこに立ち帰り、その「招きに応えて」歩み出すことができる。私たちは力なく、弱く、頼りない者であっても、もうそのことを繰り返して言う必要はない。平和の実現のために祈り、生きるように招かれているからだ。私たちは、多くの人と手を結び合い、宗教の違いをも越えて、「平和を実現する者」として「今」歩み出そうではないか。

祈る前に、隣近所の人と「平和がありますように」と挨拶を交わしたい。 

祈り。