「旧約聖書を学ぶ会」が行われました。
11月10日の学ぶ会ではイザヤ書63章7節~19節を学びました。
イザヤ63章7節から64章12節までは、捕囚期(B.C.587から538)にパレスチナで書かれ、帰還後、かなり初期の段階にこの作品に組み入れられたとされている。つまり、パレスチナに残された人々の嘆きとヤハウェへの訴えであり、同時期にパレスチナにおいて、礼拝のために集まったところで用いられていた礼典文であった可能性が指摘されている。
ユダヤ教は、捕囚期に劇的に深化したのであるが、捕囚民にも、パレスチナに残されたものにも等しく影響を与えたものは、なんと言っても神殿崩壊ではなかったか。
まずは、ヤハウェは何処にいるのか。いや、昔からヤハウェはどこにおられたのか。ヤハウェの聖なる宮は昔から天にあるのではなかったか。
ヤハウェとイスラエルはどのような関係なのか。救い主、贖い主、いや、祖先の神といわれるが、仮に祖先が違おうと、ヤハウェはイスラエルの父(造り主)イスラエルは、ヤハウェの子、しもべ、嗣業、と。
困難の状況の中で、イスラエルの民は、ヤハウェについて思索する。いつ、どこで、なにゆえ、主はイスラエルの神となったのかを思い起こしてみる。
さらに、旧約において、はじめて「主の聖なる霊」が語られる。聖霊は、(モーセの内にあるか)自分の民のなかにすんでいて(11節)、砂漠を通る彼らをカナンにある彼らの定められた家に導き、ついには、彼らの反逆によって苦しみさえする。霊は鮮明に擬人化された。
「後代のユダヤ教、キリスト教にあるように神から自立している存在として発展していく途上にあるといえる」とワイブレイは解説する。
なぜ、ヤハウェのほかに聖霊なのだろうか。
神殿崩壊によって、この地上のヤハウェの居場所が不明確になったこと、天に居場所を定めたと観念したことと関係があるのではないだろうか。
参考:「ニューセンチュリー聖書注解 イザヤ書40-66章」
R.N.ワイブレイ著、高柳 富夫訳 日本キリスト教団出版局
「現代聖書注解 イザヤ書40-66」
D.P.ハンソン著、北 博訳 日本基督教団出版局
「古代ユダヤ教」
マックス・ウェーバー著、内田 芳明訳 みすず書房・岩波書店