「勇気を出しなさい」

聖書-ヨハネ福音書 16:25-33

 十字架の死を前にしたイエスの「お別れ説教」。弟子たちの多くは、「神の国(神の支配)」の福音に触れ、イエスに従ってきた。服従の主たる動機はイエスが新しい時代の支配者となることへの期待であった。ユダヤ当局はイエスを敵視していたが、中にはイエスを「神のもとから来られた教師」と存在の大きさを認めているニコデモという名の人物もいた。過ぎ越しの祭りのため、イエスは弟子たちと共に神の都と言われるエルサレムに到着する。

 イエスは十字架による「別れ」を語るが、イエスのことをイスラエルの王になる存在と弟子たちは思いこんでいるためにどうしてもそのことが理解されない。どうすればいいか悩むイエスは、これまでは「謎」のように語って来たが、十字架の後で、自分が十字架のキリスト、父なる神の子であることがはっきりすると説明する。

 すると弟子たちは早合点してしまい、すでに分かったかのように「あなた(イエス)が神(父)のもとから来られた」方(キリスト、メシア、救い主)ですと告白する。それ自体はイエスにとり、とてもうれしいが、十字架が理解されていないので不安であった。

 そこで、十字架とは「あなたがたは散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時」をもたらす出来事だと言われる。十字架によりあなたたちは弟子でなくなるのですよとはっきり言われた。つまり、わたしとはもはや関係のない人になると言われた。弟子たちの顔は青ざめたと想像される。まさか、そんなことはあり得ないと思っていたこと(裏切り、逃亡など)が事実となるとイエスが語る。

この「まさか」であるが、人生には上り坂、下り坂の他に「まさか」という坂があると多くの人がよく言う。弟子たちにとり、イエスの十字架はこの「まさか」であった。

 イエスは「自分の十字架を負って」従って来ることを求めている。イエスの十字架は「まさか」であったが、わたしたちの十字架も同じ。だからであろう、「勇気を出しなさい。」と言われる。他の福音書ではこの言葉は「恐れることはない。」と訳されている。この「勇気」の源がヨハネ福音書で「弁護者」「真理の霊」と訳されている「復活の命」なのである。このいのちを輝かせて生きる者でありたい。

(祈り)わたしたちのかけがえのない人生に、

「復活のいのち」による輝きを与えて下さい。

  このいのちが生まれるために

キリストの「十字架」を覚えさせて下さい。

  主イエス・キリストのみ名により

アーメン