「悲しみが喜びに」

聖書-ヨハネ福音書16:16-24
しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなる」という悲しみは、「またしばらくすると、わたしを見るようになる。」という喜びに変わることを主な内容とする説教。


 十字架を明日に控え、イエスは弟子たちにご自身がどうなるかを語るが、その語り口、表情から重要なことであるとまでは感じる。弟子たちは「何を話しておられるか分からない。」

そこで説明を兼ね、ご自身が「見えなくなる」ことにより弟子たちは「悲嘆に暮れる」が、「世は喜ぶ」という十字架への相反する反応が語られる。

しかし、大切なことはそれで終わりではなく、「その悲しみは喜びに変わる。」逆転が父なる神により創造されること。この点を出産のたとえで補足説明される。

復活したイエスが「再びあなたがたと会い」、弟子たちはもはや奪い去られることのない喜びに包まれる。それは永遠のいのちにつながる。


 イエスを十字架により失うだけでなく、残されたキリスト者は「会堂から追放される」といういわば信仰の自由が認められない状況を生きなくてはならなかった。

この厳しい現実を生き抜くための奪い去られることのない復活の福音が語られる。


 今日、ヨハネが仕えた教会が置かれたような信仰の自由が認められない悲しい現実は世界の各地にある。


それを変えるための信仰の戦いがなされている。


そこには「しばらくすると」「喜びで満たされる。」状況が創造されるとの希望に生きる信仰者たちがいる。