「弱さを支えに」-修養会準備信徒説教-
マタイによる福音書 7:7~12
今日の聖句は、マタイ5章から7章までの「山上の説教」の後半部分に当たります。
イエスは「求めよ、そうすれば与えられる。」「探せ、そうすれば見つかる。」「門を叩け。そうすれば開かれる。」と語ります。「祈り求めること」を保証し、それと同時に、「神からの応答」もただちに保証しているのです。すなわち6:8「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ。」6:32「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」と。だから、6:33「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」7:12「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」と命じます。
「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」という聖句を黄金律と言います。この黄金律が全律法と預言者との総括であるとマタイは言います。
22:34~40「ファリサイ派の律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
他の黄金律は、否定形で「君たちが他人からされると怒るようなことを、他人に対して行うな。」「平和に生きようとするものは、他人を攻撃するな。」「君にとって好ましくないことを君の隣人に対してするな。」と教えます。また、孔子は、「ただ一つの言葉で全生涯を律するべき言葉」として、「恕(=他人の心を自分の心のごとくすること、すなわち思いやり)」つまり「己の欲せざるところは、人に施すことなかれ」と教えます。
しかしイエスはこの黄金律を肯定形で示します。それは大変似ているようで、全く異なることです。イエスの言葉は私たちに「行動する」ことを促します。「隣人を自分のように愛しなさい。」「自分が人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にしなさい」です。
これは大変単純明白なことと思われますが、人間業(わざ)ではとても困難なことです。このイエスの言葉は、最も大きな変革を要求するからです。つまり、「奪う者から与える者への大変革」です。今や、人類は原子力とか経済成長とかいう偶像を崇拝することによって、地球の自然を破壊し、貧しい人々を飢えさせ、人類の生命を脅かしています。
イエスはこの世の真っ只中において神の支配、神の国は始まっていると言います。聖なる場所、聖なる時においてではなく、悪と不条理に満ちた、罪に満ちたこの世の真っ只中において、神の支配が実現しているとイエスは言います。イエスの運動は「神の愛がすべての人に対して注がれる、人々すべてを神の愛が包む」という運動ですが、社会の下層の人々を差別し疎外している上部富裕層の人々は、イエスの考え方を危険視して、離れて行きました。その結果、ユダヤ社会の中の落ちこぼれた人々、つまり取税人、罪人や売春婦など、必然的にイエスの周辺には、社会の底辺の人々、見捨てられて、疎外されている人々だけが残ることとなったのです。従って、イエスの運動はユダヤ社会の上層部から危険な運動とみなされるようになりました。その結果イエスは十字架に架けられました。しかしイエスは、悪のはびこるこの世の日常生活の真っ只中で「貧しい者はさいわいだ」と言い切ることができるのです。だから「貧しい者はさいわいだ。わたしが一緒にいるのだから」と言うイエスの言葉に真実が宿ります。
神の国は突然やって来るものではなく、神の国は日常生活の只中で、初めは極めて小さいもの、目立たないものような形で始まります。小さい第一歩を歩み始めるというのが、イエスの生き方でありました。イエスがそうであったように、教会も強者の論理を退け、弱き者と共に生きるというイエスの生き様で、社会にもその関心を向けて行くべきでしょう。たえず私たちの重要な指標になるのは、イエスの生き方です。イエスの生き方は、この世の中で置き去りにされているような者にこそ焦点を合わせて考えて行こうとする生き方です。妥協に妥協を重ねて、教会が肥え太って行くというようなことは、私たち自身のためにも、教会のためにもならないし、この世のためにもなりません。教会は、イエスから価値基準の転換を迫られて、それを受け容れた人間の集りです。「強い者こそが絶対である」というこの世の価値基準を捨て、私たち自身が弱き者であることに目覚め、神から弱き私たちへ贈って下さったイエスに出会い、イエスの生き様に従い、その弱さを支えに生きて行こうという生き方の転換をし、奪う者から与える者への価値基準の大変革をした人々の集まりが教会です。私たちは弱さの中で、弱き者と共に、弱さを支えに、神の国と神の義とを求め続け、隣人を自分のように愛していこうと行動する者となるように祈り続けたいと思います。
(信徒・秋田順子)