「大きな愛」

ヨハネ福音書15:11-17
十字架の愛の具体化として兄弟愛が語られ、弟子にイエスとの新しい関係が示されると共に選ばれた者として任命される話。
 
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という「掟」の新しさは12弟子のひとりであるユダが敵になっても愛する点にあり、受難を前に十字架の愛とは何かが示され、弟子たちの大きな課題となる。すでにイエスは「サタンが彼の中に入った」と言われたユダに「パン切れ」を受け取らせることで敵を愛することの模範を示されている(13章)。
 
また、弟子を「友」とすると言われ、先生と弟子という垂直の関係を水平にされ、「間に宿られた」ことの受肉となる。そして、先行する神の選びの下、「出かけて行って実を結び、その実が残るように」と使命が与えられる。
 
しかし、弟子たちは十字架を前に自ら用意していた「逃げ道」を歩む者となりつつあった。ユダはすでに逃げていった。第二、第三の「ユダ」は誰か。「ユダのいる風景」(荒井献著)に佐藤研(さとうみがく)という新約聖書学者のユダに関するコメントが紹介されている。
 
「~キリスト教者の隠れた自己の姿であり、人間では、いや自分に対しても、決して認めたくないイエスへの秘められた反抗と憎しみと暴虐の実相を対象化したものなのである。」(101頁)
このユダがイエスに足を洗われ、最後の晩餐にあずかることで神の大きな愛が示されている。
 
わたしたちは自分の中のユダを自覚しつつ、この「大きな愛」(十字架)に生きることを使命としたい。