「わたしはまことのぶどうの木」-平和聖日礼拝-

聖書-ヨハネ福音書15:1-10
イエスこそ「豊かな実」を与えて下さる「まことのぶどうの木」であることを語るたとえ話。
 
ヨハネ福音書ではこれまで「イエスとは誰か」を繰り返し語り続けてきたが、この箇所を含めて2回は、
「良い」「まこと」と言われる。「良くない」「まことでない」存在がいわば前提されていて、それは「イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた。」勢力が想像される。
弟子たちは切り捨てられた枝(追放)とされたが、イエスという「まことのぶどうの木」につなぎ直された。
そのことを象徴するのが、イエスが弟子たちの足を洗う物語である。
 このつなぎ直しにより、キリストの恵みに生かされる枝とされ新しい存在価値を与えられた。
 
今日は平和聖日礼拝。献金は沖縄の教会にささげられる。沖縄は日本という国家により切り捨てられて、
「基地の島」とされている。「切り捨てられる」点でイエスの弟子と似ている。この島が「平和の主」につなぎ直され、「平和の島」となるために祈り続けたい。沖縄が求めているもの、それが聖書が語る「シャローム」である。この「シャローム」には現状に対する徹底的な批判を通して新しい平和を創造するパワーがある。
 
わたしたちは、「まことのぶどうの木」である主イエス・キリストにつなぎ直された枝であり、
8月の「6(広島)、9(長崎)、15(敗戦)」を再確認しつつ、「豊かな実」のひとつである平和をつくり出すものでありたいと思う。